生涯学習の新拠点

 

発  言

 ◆どこで産もうか?どう産もうか



 

 ◆宇治市オープン参観に参加して




 ◆ダニエル&ハンナ・グリーンバーク夫妻大阪講演会報告レポート 
 

◆どこで産もうか、どう産もうか       金森土岐


「そら、うちが一番でっせ。はっはっは」
私がこの産院に決めたのはこのひとことから始まりました。出産するにあたって初めて出産のあり方や考え方の多様さに戸惑い、悩んでいた頃でした。 妊娠したかもしれないと思って、まず近所の産婦人科を探し(引っ越したばかりでまだどこに何があるのかもわからない時でした。)、 女医さんだという病院へ行きました。10代から多少の婦人病を患っていたこともあって相談しやすいかなと思ったのと、 やはりできるなら女性に診てもらいたいという思いからそこを選んだものの、結果は期待したものではありませんでした。 決して悪い先生ではないのですが、なんとなく私が退いてしまうというか、不安な気持ちを言い辛いというか、 うまが合わないというか……で、分娩施設がなかったことも幸いして、転院することに決めました。
   
 “出産”というデリケートな部分と、妊娠初期の不安定な気持ちも重なって (しかも数週間は妊娠がはっきり確認できず子宮外妊娠の可能性もあると言われ、余計に不安でした。)、別の病院へ行くことにしたのです。 そこの先生は男性でしたが人当りもやわらかくて、話しやすい先生でした。看護婦さんの雰囲気もまあいいほうだったと思います。 が、数度の診察を受けるなかで診察台での不愉快さがどんどん大きくなっていきました。安定期に入ってからはその病院では 内診はなかったのですが、出産となるとやはり分娩台に乗って足を広げて産むんだなあと、でもまだその時は、 そんなものなんだろうなあ位にしか考えていませんでした。というよりそれが普通であたりまえだと思っていました。 でもなんとなく嫌だなあって感じで。
   
  それがなぜいろいろ考えるようになったかというと、その始まりはとても単純で、とにかく痛いのが嫌いな私は“出産”という 未知の痛みに少なからず恐怖を抱いていて、少しでも痛みの少ない方法はないものかと考えていました。
 その時に知ったのが“水中分娩”という出産方法。聞いたことはあったけれどどんなものなのかはそれまであまり興味もなく、 だいたい“自分がこどもを産む”なんて考えたことも余りなかったのです。その私が妊娠を知り、出産に伴う痛みを想像し、 ぞっとしていた時でした。ふたつ年上の姉と電話で話していた時のことでした。現在の状態や妊娠中のしんどさなんかを話していた時、 話の流れは分娩の方に向いていって、「あの姿勢って結構屈辱的なんだよね」とかそういうことから「痛いのって嫌いだしなあ」 と不安な本音もぽろぽろ出始めたときに、「水中分娩とかアクティブバースとかいろんな方法があるんやで」というひとこと。 私にとっては「なになに? なにそれ? もっとわかりやすう言うてえな」って感じで、初めて聞く話に驚きでした。 「だいたい仰向けになって両足広げてこども産む動物なんておらんやん。人間かって動物やねんし、あの姿勢は絶対不自然や」と姉。 「ほんならどうやって産むのん?」と私。昔は人間だって天井から吊された紐につかまって座ったまま産んでいたことや、 “産み落とす”という言葉の表現が現在の出産からは感じられなくなってることなんかを話してくれました。
  紐につかまって産んでいるのは時代劇で見たことはあったけどあれは設備がないからだとただそれだけしか思わなかったし、 それはもちろんそうなんだけど、確かに設備が整いすぎたことで医者任せのというか医者(こどもをとりあげてくれる人) が楽なようになってるなあ。そういえば盆や正月にかからないように出産をずらす医者がいるって聞いたことがあるし、 土日にかからないように陣痛促進剤を打つとかも聞いたことあるなあ。それになにより会陰切開。陣痛とか出産も怖いけど、 あれってほんまに必要なんかな。……なんだかどんどん深みにはまってしまいます。
 痛みの感じ方が人それぞれなら痛みを逃す方法も人それぞれのはず。そのそれぞれさを受け入れているのが“アクティブバース”と言って、 妊婦さんが自分の楽なように、自分で産む体勢を決められる方法がある。また、水中分娩を行っている所ではリラックスできるように 部屋を薄暗くしてアロマオイルを炊いたり、CDをかけたりしてくれる所もあるとか。体温に近い水の中で座った姿勢になるので 重力にも逆らわず、浮力もあり、身体の力も抜けるし、皮膚が柔らかくもなって痛みは10分の1ほどにも軽減されるらしい。 なんか想像するとちょっと神秘的でステキじゃない? だけど“いつか迎える出産の時には”の姉と違って、私の出産は数ケ月後。 そんな悠長に構えてはいられませんでした。
妊娠も5ケ月に入り、そろそろ出産場所の目星をつけておかなければと気持ちは焦るものの、助産院がどこにあるかもわかりません。 だいたいが助産院と病院の違いもよく判っていなかったし、水中分娩を扱っているのがどういうところなのかも判りません。 とりあえず保健所に出向き事情を話すと、そういう出産をしているかどうかはわからないけど、と区内の助産院を教えてくれました。 家に帰って早速電話してみましたが残念ながらどこも扱ってはいません。県内には日本で最初に水中分娩を始めたという産院があると 姉から聞いてそこにも電話をしましたが、水中分娩について知りたいと言っても、先生は忙しいのでひとりひとりにそんな話はできないし、 設備を見せることもできないと言われ、自宅からも車で高速に乗っても優に40分はかかってしまいそうだったのでこれでは通えないと諦めました。
 さあ、どうしようか。
 姉の話ではその「アクティブバース」とやらにも興味がある。痛いとき、 苦しいときに自分の身体が望む姿勢になれるのは有り難いし、確かにそれは自然なこと。 その出産方法を取り入れている助産院は実家の近くにあるらしい。そこもそういう世界 (そう、こういうのは興味があったり医療に疑問を持ったりという一部の人しか考えないし、情報も入ってこない。 フツーの生活をしていれば無縁のことでそんな立場から見れば完全に別世界のことなのです。)ではかなり有名な助産院らしい。 そこに行ってみよう、と思い京都の実家へ帰りました。
  ところがです。
私の出産予定日は2月8日。そこは2月はお休みしているということで受け付けていないというではありませんか。 もう、何か八方塞がりの気分で、父親の知り合いの保健婦さんに産院のリストをファックスしてもらったり、そこで産んだ人の話 (「こう言うてはったよ」程度のことですが)を聞いたりして足を運んだものの「絶対ここでは産みたくない」「この先生は嫌」。 自分はこんなにわがままだったかと情けなくなるんですが、病気と違って先生や看護婦さん、その病院そのものとの相性がほんとに 大切なんだと思いました。一生の中でもしかしたら最初で最後の経験かもしれないし、健康体であるからこそ、我慢したくないんです。 自分で納得した形で安心して任せられる場所で、冗談でも言い合えるくらいの先生や看護婦さん達の中でこどもを産みたい。 産院へ問い合わせの電話を入れる度、足を運ぶ度、その思いが強くなっていきました。
「自分に合う先生ってなかなかいないんだ」というのが実感でした。そして現在、経過を診てもらっている自宅近くの先生は その中でも丁寧で親切で優しいんだということも次第に感じ始めました。でも違う。母子同室で6人ほどの相部屋だということも 大きなネックだったんですが、なんとなく(もうこの「なんとなく」にしか頼れないんです。)違うんです。 結局京都にまで足を運んでいい所みつからないのか、とがっかりして、もう家に帰らなければならない時期に 「最後の手段!!」とタウンページを広げ自宅から通える産院を探し、ようやく見つけた1件に電話をかけました。
「あのう、ちょっとお尋ねしたいんですが、里帰り出産は受け付けていらっしゃいます か?」
「はい、大丈夫ですよ、いま何ケ月ですか?」
(結構感じいいやん)「5ケ月で、2月が予定なんですが」
「2月……、はい、空いてますよ」
「診察に予約は要るんでしょうか」
「いいえ、大丈夫ですよ。ちょっとお待ち下さいね」
…… 「もしもし。電話替わりました。」
(えー? 先生やん)「すみません。2月に出産予定で里帰りにしようかどうしようか」
考えていて、まだはっきり決めてないんですけど産院を探していて……」
「そらぁ、うちが一番でっせ。はっはっはっ」
(なんや? このひと)
「これから伺っても大丈夫ですか? 診察時間を過ぎてしまうかもしれないんですけど」
「いいですよ。待ってますからどうぞいらっしゃい」
何というか、それこそ「なんとなく」いいかもしれないという余りにも抽象的な漠然とした安心感を感じてタクシーでその病院へ向かいました。 午前の診察時間を10分ほど過ぎた頃、私は石原産婦人科へ到着しました。もう患者さんは会計を待っている人がいるだけで、すぐに中へ通されました。 型通りの内診、問診の中で、
「あんた、どっからきたんや」
「横浜です。」
「またえらい遠い所から。去年僕、学会で行ったんや。なん言うたかな。みなと……」
「みなとみらいですか」
「そうそう。横浜かあ、ええとこやなあ」
カーテンの向こうとこっちでそんなやりとりをしているうちに、こんな「世間話」みたいな普通の会話をした産院は初めてなのに気付きました。
どこにでもいるようなおっちゃん先生が何かすごく嬉しかったのを今でも覚えています。 「今日行った病院な、変な先生やってん。でも何かよかった」
その日、京都に帰ってから初めて、父や母や姉にそう報告ができました。
里帰りをするならここにしよう。水中分娩もアクティブバースも半分どうでもよくなっていました。
いま思うと、水中分娩やアクティブバースをしているような所はきっとみんな暖かいひとなんだろうという想像があり、元を正していけばそれはそういう所なら安心してリラックスできるだろうという想いがあり、自分の肌に合う産院ならそれは可能なことだったのかもしれません。受身で他人任せの“産ませてもらう出産”ではなくて“自分が産む出産”こそが大切なんだと言う人達もいますが、それは病院でも充分可能だし、産む本人の意識の問題で、大体「出産」という行為そのものが本人主体でなくてはできないことだと、出産を終えて思います。産院を探すこと、自分に合った先生や環境を探すこと、それは身重では特にしんどいことで大変なことでした。それでもようやく、本当にようやく出逢えたとき、どう言えばいいんでしょうか、ほっとしたんです。 そんなこんなでまだはっきりとどこで出産するかは決めずにいながらも、おなかのなかでこどもはすくすくと育っていき、妊娠6ケ月に入った頃、保健所主催の「母親教室」なるものに参加しました。何も分からない出産、育児のことを知りたいという気持ちは当然ありましたが、それよりも知り合いが皆無に等しいこの土地でとにかく友達を作りたいという気持ちのほうが強かったように思います。幸いにも近所の方たちとのグループで数人と仲良くなり、それぞれが通っている病院や、仕入れた情報の交換をすることができました。里帰り出産、立ち会い出産、自宅出産(!!)。私も自分が水中分娩やアクティブバースに興味を持っていることを話してみましたが、残念ながら「ここでやるよ」というような情報は入ってきませんでした。 最終的に“こどもを産む場”として石原産婦人科に決めたのは、理由がふたつありました。ひとつはやはり、病院で受けた印象。そしてもうひとつは知り合いのいない土地で初めての子を産む不安感でした。夫の仕事柄ひとりきりの夜も多く、何かあったときに対処できるだろうかという不安。それは私だけでなく夫も感じていた不安でした。いろいろ話し合った結果、私も夫も安心できるということで「里帰り出産」が決まりました。 1月3日。正月明けに大きなおなかで実家に帰り、7日に2度目の診察に訪れたとき、受付をした直後に出血し、すぐに診察室に入りました。 「出血したんやて。かなんなあ。どうしたんや」
相変わらずの先生に笑う状況ではないのに笑えてしまいます。
「こらあかんわ。このまま入院や。ちょっとまだ早いもんなあ」
とそのまま一週間入院することになってしまいました。その一週間は「プレ入院」とでも言いましょうか、そのおかげで出産後のしんどいなかでも勝手知ったる何とやらで何ひとつ困ることや分からないことはありませんでした。 食事の内容や味付けも(これってすごく重要ですよね)、不満なものではなかったのでとにかく本当に全てに安心して出産を迎えることができました。それに驚いたのはある夜、突然ノックの音がして先生が入ってきました。入院した夜も様子を見に寄って頂いていたのでそれだと思ったら、 「どうや?」
と覗き込んだ先生の手にはドーナツの箱が。
「いまコーヒー飲んできてん。これお土産」
こんな病院ってあんの?
一週間後。
「もう明日帰ってええわ。もういつ出てきてもかまへんわ」
昨日まではまだ早いって言っていてそんなもんなんだぁ、おなかのなかの一日ってすごいんだなあと妙に感心しながら退院しました。 その後は特に変わったこともなく、私のおなかはすっかり大きくなって赤ちゃんは元気におなかを蹴り続け、2月6日に3回ほど陣痛らしきものがあったんですが、そのときはぴたりと止まって2月9日。予定日が8日だったので予定日を過ぎての定期検診でした。
「もうだいぶ下りてきとるんやけどなあ。まだ子宮口が堅いなあ。柔らかこうする薬入 れるな」
家に帰った頃から気分が悪くなり、そのまま横になって夕方まで寝てしまいました。目が覚めてからもどうもすっきりしない、 おなかのへんがもやもやして気色悪いなぁ、うっとうしいなぁって感じで、このまま陣痛になったら嫌やなあとか言いながらしっかりご飯を食べて、 23時10分ごろ。トイレに行ったらおしるしがあり、いよいよ本番の始まりでした。すぐに陣痛が始まり、0時15分に病院へ電話。 15分間隔になったら連絡してくださいと言われ、でもすでに15分くらいで痛くなったりしてたんですが、もともと生理痛のひどい私には余裕で耐えられる痛み だったので父に傍にいてもらいながら陣痛の合間に赤川次郎を読み、2時頃、コーヒーでも炒れようかとお湯を湧かしに立とうとして、もう立つのが辛くなって いるのに気付きました。その20分ほど前から、トイレに行ったり移動するのによつんばいの方が楽で、私は4本足の動物になっていました。 間隔も5分から10分になっていて「おもろいなあ」と眺めていた父も「そろそろ行った方がええんちゃうか」と言い出し、仮眠を取っていた母も起きてきて 病院に電話してくれました。その日は義兄が出張、姉は風邪で車を出せる者がいなかったので早目に行こうと2時30分頃病院へ行きました。

当直の助産婦さんに診察してもらった結果、すぐに陣痛室に入りました。本人以外は入れないということで、付き添ってきてくれた母と別れ、陣痛室に入ると、先客が一人いらしたんですが、当然挨拶する余裕もなく横になり、「分娩監視装置」をおなかに巻かれてお互いに背中を向けこれまで味わったことのない痛みに耐えました。ただ、家族が傍にいるわけではなく、同じように痛みに耐える他人同士なので互いに暗黙の了解というか、声を上げると相手の痛みまで誘発してしまいそうな気がして、声を殺しての戦いでした。それはかえって良かったのかもしれません。病院に着いた当初は「午前中には生まれるでしょう」と言われ、とてつもなく長い時間のように思えていたんですが、しばらくして4時頃でしょうか、分娩室に移動になりました。「もう生まれるんですか?」という問いに、「7時頃かなあ」との答え。分娩台にはどうやって上がったのか余り覚えていません。歩いて部屋を移動したのだけは覚えています。分娩室に一人になった途端、現金なもので、これまでは必死で堪えていた痛みの声が我慢できなくなりました。もうこうなったら痛いものは痛い、叫びたいだけ叫んでやれと我慢するのをやめました。大体、あの分娩監視装置のおかげで「そろそろくるぞ」っていうのが分かるし、あのグラフの波が上がっていくのを見るだけで痛くなってくるような気がして、それでも他にすることもないのでついつい眺めてしまっているのです。出産後しばらくは他人の心音を聴くのも嫌でした。そのうち助産婦さんが戻ってきて私の足を分娩台に括り付け始めました。そう、文字通り括り付けたんです。拷問台に括り付ける革ひものようなもので両足はしっかり固定されました。(なにすんねん)とは声にならず、はっきり言ってどうでもいい、どうにでもしてって気分でした。母親教室で習ったはずの呼吸法は一体どれを使えばいいのか判らずに助産婦さんに教えてもらってなんとかやれたって感じでした。「そんなに力入れて握ってたら後で疲れるよ」と言われるほど棒を握り締めていました。無意識のうちでした。助産婦さんが傍に寄ると「人の手」を掴みたい衝動に駆られてしまいます。 先生が入ってきて、「まだやまだ、あと2時間くらいかかるわ」と言って出て行き、助産婦さんも「あと2時間やって」と言って点滴を始めました。苦しくて痛くて朦朧とするなかで「それ何の点滴ですか」と尋ね、「子宮収縮剤を打つときの……」そこから先は何を言われたのか全然理解できませんでした。「でも誘発剤とかそんなんとちゃうから」の言葉にほっとして、再び一人残されました。その頃だと思います。 「パシュッ」
というまるでアスファルトにヨーヨーを叩きつけて割れたときのような大きな音がして私の左足が水浸しになり、 床にも水の飛び散る音がはっきり聞こえるほどの破水でした。痛みは極限ですごい声で叫んでいた気がします。 戻ってきた助産婦さんが靴下を脱がしてくれて今更のような気もする袋を足に掛けてくれました。(まだいきんだらあかんのかな)と 思いつつもう我慢はできずに内緒(のつもり)でいきんでいました。もう一度先生を呼んでくれたんですが、「まだまだやって」と言いながら入ってきた 先生は様子を見るなり「ちょっと待て待て」と言ってばたばたと処置を始め、待てと言われても待てないこどもの頭を押さえながら会陰切開をし、 そこからはあっという間に誕生。ドラマで観ていたような廊下に響き渡るような大きな産声を想像していたので、意外にも弱々しい声に拍子抜けしながらも 何か妙な気分でした。1999年2月10日、午前4時38分のことでした。

「女の子」
助産婦さんの言葉に女の子かぁと思い、ほっとしたのも束の間。おなかを押されて、それがまた「陣痛再び」って感じで痛くて「イタタタ」と言うと、 「静かにせえ」と怒られ、後産も終了。今度は縫合が始まりました。切開したときは全然分からなかったので「切ったんですか?」と助産婦さんに聞くと 「全然分からんやろ」と言われ、「確かに」と納得していると縫うときは痛いんです。 出産のときの言葉にならない痛みとは違って知っている痛みだから余計に痛くて「イテテテ、痛い痛い」とか「先生、痛いって」とか言って、 その度に「うるさいわい。こんなんお産の痛みに比べたら大したことないやろ。そんなうるさいのあんたぐらいなもんや。静かにしとらなぐちゃぐちゃに縫うど」 と悪態をつかれながら、それでも痛いもんは痛くて、そんな最中に「赤ちゃんよ」って連れてこられてもとてもじゃないけど「感動の対面」はできませんでした。 だっこもできなくて、「何か締まらん」終わり方でした。

  次の出産が控えていたのですぐにストレッチャーに乗せられてしばらく分娩室と陣痛室の間(そこは授乳室でした)に置いておかれ、 小さな窓から母と会い、助産婦さんが持ってきてくれた電話で夫に報告したら途端に寒さと眠気が襲ってきて、震えは止まらず全身の力も抜けて ふにゃふにゃ状態でした。分娩室で打たれた点滴の後は10ケ月経ってやっと消えようとしています。

陣痛室で朝まで休んだ後、悪露を替えてくれた看護婦さんの手がすごく冷たくて、「冷たい方が早く子宮が収縮するんよ」と言われたのを覚えています。 朝食を食べようかと思ったけど、パンを少しかじっただけでした。そういえばまだこどもに会ってないんだと看護婦さんにお願いして初めてだっこしました。 まだ母になったという実感はなく、気持ち良さそうに眠っている赤ん坊がさっきまでおなかにいたんだというのも不思議で、おなかのなかにもう何も入って いないというのも不思議でした。やがて朝一番の新幹線で飛んできた夫が到着し、病室に戻りました。
その日1日は授乳もなくのんびり過ごしたものの、おなかは痛いわ、傷は痛いわ、体中筋肉痛だわで、ぼろぼろになった気分でした。それでも達成感というか、何かを成し遂げたような充実感もありました。次の日から4時間置きの授乳が始まり、ふたりしか新米ママがいなかったおかげで看護婦さん達ものんびりして和気あいあいとしていました。おっぱいは全然出ずに、それでもがんばって吸っているこどもと吸われる度に子宮が痛むのとで結構大変でした。おっぱいの時間でもひたすら眠り続けるこどもを一生懸命起こしながらミルクを飲ませ、げっぷまでさせると2時間もかかってしまうこともありました。3日目にはおっぱいが急に出るようになって看護婦さんに搾乳してもらったり、マッサージしてもらったりとずいぶんお世話になりました。傷が痛くて立ったまま食事をするのもしょっちゅうで、そのうちおっぱいもはち切れそうに痛くなり、出産したら全ての痛みが消えると思っていた 私には結構辛い毎日だったけど1週間の入院はすごく楽しいものでした。その間、先生からの差し入れ(シュークリームでした。)もしっかりありました。
 出産は長かった妊娠生活の集大成です。新しい生活の始まりなんだけど、体重管理や塩分調整、小さな風邪ひとつにも気を付けていたのは 全てこの瞬間のためでした。どんな形であれ、どこの産院であれ、人に聞くだけの評判ではなくて実際に足を運んでみることも大切だと思います。 ただ、内診の嫌な気分を我慢できればということになりますけれど。できることなら私自身も避けたい診察ではありました。でも、電話での対応や、 看護婦さんのイメージや応対の仕方でもその病院や院長先生の方針がある程度分かると思います。

どこで産むかは何度も言うように「自分が居心地のいいところ」が一番いい。私は石原産婦人科を選んだけど、限られた時間と自分が探した数件の産院の中ではベストな選択だったと思っています。水中分娩もアクティブバースもできなくて、出産形態そのものはごくありふれたものだったけど、次にまた出産する機会があり、条件が揃えばまたお世話になりたいと思う病院でした。( (99.12.04)

 


◆宇治市オープン参観日の私の感想       山岸英子


 先だっての6月23日〜25日の3日間、宇治市五ヶ庄広野中学校で「オープン参観日」が実施された。 広中にとっても初めての試みでもちろん宇治市内の公立の学校では前例のない取り組みだったのではないだろうか−−。 私がおじゃまをしたのは午後2時頃だった。ちょうど6時間目の授業中で、教室ではまじめに授業を受ける子、横を向いて友人としゃべる子、 窓の外をボーとながめる子、手紙をまわす子、教室をフラッと抜け出す子、等々、同じ授業を受けるにもいろんなかたちがあるもんだと関心する。 又、教室の外では、だだっ子の様に先生に何かを訴える子、校門から出ていく子もわずかなだがいる。 校内はきちんと清掃されていて、大変美しい。先生方もみなさんにこやかに対応して下さり、この取り組みへの意気込みが感じられる。
 20数年前、私自身も宇治市内の公立中学に通っていたが、自分の体験を振り返ってみても、子ども達自体に当時との差異はそれほど認められなかった。 昔から熱心な子もいれば、無気力な子もいた。先生に甘えたり、学校を抜け出す子もいた。
 ただ、当時とちがっていたのは先生方の態度だ。昔の先生はもっとこわかった。 木刀をもって校内を歩いている先生や大声で怒鳴りつける先生が数人はいた。「力」で管理されているという感じがした。 しかし、「オープン参観」で目にした先生方の態度にそれは無かった。無理難題をいう子や、脱走する子にもあくまで、おだやかな口調で語りかけている。 子ども達の心の痛みに少しでも寄りそいたい、少しでも支えになりたい、見守りたいという先生方の思いがこちらにひしひしと伝わってきて思わず、 胸のつまる思いがした。
 確かに今、教育現場の「荒れ」はますます深刻化している。そして、もっときびしいしつけを、教育をという動きもある。 そんな中であえて「力」に頼らず、生徒との信頼関係を築こうという先生方の姿勢は、一保護者としても大変ありがたく、 荒廃した学校教育に一筋の明るい光を見た気がした。ただ、子ども達の心に寄り添いじっくりと・・・という方法はたいへんなエネルギーが必要とされる。 「力」による管理の方が、よほど手っ取り早く即効性があるように見える。(見た目は整然と秩序が守られているように見える。)
 そこで、求められるのが保護者を含む「総合的な地域の力」ではないだろうか。忙しすぎる先生の代わりに、じっくりとクラブ活動に関わる。 休み時間にゆっくりと話し相手になってみる、等々先生をフォローする様な取り組み。また、いろんな分野の専門家が教壇に立ち、 実社会との接点を体験できる喜びを実感させる様な取り組み。等、地域住民の出番はいくらでもありそうだ。 もしかすると今回の「オープン参観」の目的もここいら辺にあるのかな?とおもったりもする。たった3日間の「オープン参観」ではあったが、 先生方にしてみれば大変な意識改革が必要だったのではないだろうか。 参観日のために用意した1時間の授業を保護者に見せるのとは違い学校が開いている間いつでもどうぞというのは、 迎える側によほどの覚悟がないとできることではない。先生がここまでがんばってるんだから、市民の方も今までのようにのんびり、 何でも学校任せにしていてはいけない。一人でも多くの市民が学校の現状を自分の目で確かめ、何かを感じ、行動を起こす時ではないだろうか。 学校や子どもの問題は当事者だけでなく、市民一人ひとりが自分の問題としてとらえ。社会を構成する一員として、 その責任を果たすべきではないだろうか。市民の側にも大きな意識改革がせまられているのである。
 今回、参観をした市民はトータルで何人ほどだったのだろう。おそらく、そう多くはないと思われる。 しかし、先生方はこの数字にめげず、ぜひとも今後も「オープン参観」を2回、3回と続けていって欲しいと思う。 そして、他校(小学校を含めて)にもこのような動きが広がっていくことを期待し、期間も3日から1週間、1週間から1ヶ月、 そして将来的には、「オープン参観」ではなく、1年中いつでも参観が可能な「開かれた学校」が実現することを願っている。 そこには、きっと、活力満ち、目をキラキラと輝かせた大勢の子ども達とそれを暖かく見守り、サポートをする大人達がいることを信じて・・・・。 (1999年7月7日)

◆ダニエル&ハンナ・グリーンバーク夫妻大阪講演会報告レポート 金森弓束

 1999年4月24日(土)、大阪のド−ンセンタ−で、「サドベリー・バレー・スクール」(Sudbery Valley School)の創設者 グリーンバーグ夫妻の講演会がありました。
 「サドベリー・バレー・スクール」は、米国マサチューセッツ州フラミンガム(ボストン近郊)に、1968年に設立されたフリースクールで、 現在4歳から19歳までの約200人が通っています。この学校は、「完全に民主的な制度」のもと、子どもたちとスタッフそれぞれが1票の権利を持つ、 スク−ルミ−ティング(全体集会)によって運営されています。 規律、予算の使い方、学校運営、スタッフの採用・解雇にいたる全てにわたって例外はありません。 今回の講演会は、まずダニエルさんが「21世紀に向けての教育とは」というテーマで、サドベリ−校の理念について話され、 次にハンナさんがサドベリ−校の日々の様子を、?学校がどのように運営せれているか?子どもたちはどのように時間を過ごしているのかの 2点に分けて話されました。このレポートは、その後の質疑応答も含めた講演内容を、私のメモをもとにできるだけくわしく整理したものです。
 

●21世紀に向けての教育とは

           ダニエル・グリーンバーグ氏講演

 ダニエルさんは、若い頃、医学生に物理学を教える仕事をしていました。 息子のマイケルくんが4歳のとき、マイケルくんのことを思いながら、 ダニエルさんは教育や学校について考えました。サドベリー・バレー・スクールは、反公教育という考えから出発したのではなく、 「学校とは、教育とはどうあるべきか」というところからスタートしたのです。
 

学校とは

○学校とは子どものニーズ(あるいは欲求)と社会のニーズ(あるいは欲求)を満たすところである。

そもそも学校は、出来てまだ100年の短い歴史しかありません。学校がなかった時代、子どもたちは地域コミュニティーで育ち、 生きていくのに必要なことをその中で学びました。
産業革命がおこり地域コミュニティーが崩れた後に学校は生まれたのです。学校は人と人とが知り合う公共の場であり、社会と結びつく場です。 ですから子どものニーズ(あるいは欲求)と社会のニーズ(あるいは欲求)を満たすところが、学校であると考えられます。

 では子どもの欲求、社会の欲求とはどんなことでしょうか。

子どもの欲求

○子どもはつねに良き大人になりたがっている!!

子どもはみんな、つねに良き大人になりたがっています。これは種の保存という、生物の一番基本的な欲求です。
○良き大人になるための技能

良き大人になるために、子どもには次の11の技能がそなわっています。これは、ダニエルさんが30年子どもたちを見ているうちに気づいたことです。
1 理想像をもつ
2 問題解決
3 好奇心
4 自発的な動機
5 イマジネーション(想像性)と創造力
6 エネルギ−
7 持続性
8 集中力
9 自己評価
10 判断力
11 情熱(喜び、怒りなど)

1 理想像をもつ歩き始めた子どもを見ていると、「歩く」という行為に向かって、何度も何度もこけることを繰り返して歩けるようになっていくのがわかります。

2 問題解決世の中のことがまだ何1つわからない新生児は、何でも見て、触って、なめて…五感で感じて理解しようとします。 変化を感じとって理解すること、これは人が一生続けることです。

3 好奇心子どもは、何でも触ったり、なめたり、家中を散らかしまわります。とにかく目の前のこと全てを知りたくてたまらないのです。

4 自発的な動機子どもが興味を示すだろうと思って大人がしたことに対して、全くそうでなかったというエピソードがあります。 マイケルくんが3歳の時、ダニエルさんはマイケルくんがきっとおもしろいと思うに違いないと考えて、ハンナさんと3人で、動物園へ行こうと バスに乗りました。ところがマイケルくんはバスの中で、何か気にいらないことがあり、おこりはじめました。しかたなくダニエルさんは、 バスを降りることにしました。歩道に降り立ったとき、マイケルくんは、とても素敵なものをみつけました。歩道は煉瓦を並べた道でした。 マイケルくんは煉瓦の並べ方にとても興味をもったのです。マイケルくんが、そこで夢中になって遊び始めたため、結局その日動物園へは たどり着けませんでした。

5 イマジネーション(想像性)と創造力大人が、想像力を高められるだろうという歌い文句のおもちゃ(それは、高価である場合が多いのですが)を 子どもに与えた時、子どもは、たいてい2、3分すると本来の遊び方とは全く違った遊び方を考え出して遊んでいます。

6 エネルギ−子どもはたいてい朝起きてすぐからとても活発に行動し、3歳の子どもでも1日中いっしょに動いていると大人は へとへとになってしまいます。

7 持続性 子どもは同じことを繰り返し繰り返し行うことを好みます。『くまのプーさん』の「イ−ヨ−の誕生日」のお話は、 子どものこの特徴を知ってはじめて理解できます。年老いたろばイーヨーの誕生日、子ブタは自分の大好きな風船をプレゼントしようと イーヨーのところへ出かけます。ところが途中で風船はわれてしまいます。一方くまのプーも、自分の大好きなはちみつを一壷プレゼントしようと しますが、途中で全部食べてしまいます。イーヨーのところにきた2匹は、それぞれわれてしぼんだ風船と、からっぽの壷を申し訳なさそうに 差し出します。ところがイーヨーは、壷の中にしぼんだ風船を入れたり出したりして遊び、大喜びしたのでした。

8 集中力 子どもには1時間、1日、1週間、1ケ月と集中して何かをする力があります。ダニエルさんの3歳のお孫さんは、 「オズの魔法使い」のビデオを繰り返し見ることをずっと続けていました。全てのせりふと歌を覚えることがその目的で、 それが達成できるまでビデオを見続けるのをやめませんでした。

9 自己評価子どもはいつも大人と自分を見比べています。何かをやっているとき自分のできばえに不満足であることもしばしばあります。 マイケルくんが3歳の時、2人は野球をしていました。ダニエルさんが投げたボールをマイケルくんが打ったとき、まあまあよく飛んだので、 ダニエルさんは、少し大げさに誉めました。すると急にマイケルくんはおこりだし、「もう、おとうさんとは野球はやらない!」と言いました。 ダニエルさんがどうしてかときくと、マイケルくんはこう答えました。「おとうさんは、ウソつきだから。」

10 判断力子どもは自分で行動している時は、例えばどちらに行こうかということをいつも自分で判断して動いています。

11 情熱 子どもは、喜怒哀楽を感じ表現して、生きていくためのエネルギーをつちかっています。

○良き大人になるための手段・方法
以上のような技能をつかい、子どもは次のような方法で、良き大人になろうとします。これは、すなわち子どもの学び方です。
1 観察力(感覚)
2 体験
3 あそび
4 コミュニケーション

1と2はよく知られていることですので、3と4について説明します。 3 あそびあそびというのは重要な学びの手段です。 あそびとは、終わりが見えない全ての行動です。例えば、木片をたくさん子どもの目に届くところに置いておく時、 これで箱を作りましょうと言ってしまうと、これはあそびではありません。終わりが見えているからです。 でも、木片を置いておくだけなら、子どもが自分で何かあそびを考えつくかもしれません。人生というのは、いつの地点でも終わりが見えないものです。 また、日々起こる様々なことは、終わりがどうなるかいつも全くわかりません。そのような出来事にいかに対処していくかという能力を 子どもはあそびの中でつちかっているのです。アメリカの有名な大手の企業は、この「あそび」というものを理解しています。 そのような企業はたいていスタッフを「あそばせる」時間をつくるようにしています。4コミュニケーションコミュニケーションとは、話すことです。 社会の中で人が何かを成すとき、話すことなしで達成することはできません。子どもがことばを覚えるのは、 そのことによって話している人の心を知ることができるからです。そうして覚えたことばを手段にして、子どもは世の中のしくみを理解していくのです。 社会のニーズとは次に、現代社会のニーズについて考えてみます。現代社会、そして21世紀では、どのような人を必要としているのでしょうか。

○現代の社会とは民主主義社会である
現代社会は民主主義社会です。民主主義社会とは次のような社会です。
1 個人の尊重
2 全体による決定
3 自由への理解!!

1 個人の尊重民主主義社会とは、1人1人が同じだけ尊重される社会です。それはみんなが同じということではありません。 民主主義社会以前には、例えば女性は尊重されていませんでした。子どもについてもそうです。大人がそれぞれ同じだけ尊重される社会とは、 子どももそれぞれ同じだけ尊重されるということが前提にあるのです。
2 全体による決定民主主義社会では、1人1人が同じだけ社会のことを決断する1票があります。子どもにも1人1人に決定権があります。

3 自由への理解民主主義社会では、いかに自由になるのか1人1人が知っていることが大切です。 近年、一夜のうちに「自由」を手に入れたロシアの人々は、急に「自由」を手にしたために今大混乱をおこしています。 「自由」であるためには、いかに自由であるかということを子どもの時から身につけておくことが重要なのです。

○現代は、ポスト産業社会の世代である
現代は、ポスト産業社会、さらに情報化社会へと進んでいます。ポスト産業社会を担う人には、次のようなことが求められています。

1 創造性
2 起業力
3 責任感
4 判断力
5 柔軟性と適応力
6 コミュニケーションの取り方を知っている
7 協調性がある
8 問題をどうやって解決するか知っている

例えば、ある大きな図書館の館長に、どういう人をスタッフとして採用するかと質問したところ、「創造力があり、好奇心が旺盛で、 間違いをおそれず、柔軟性のある人」という答えがかえってきました。書籍を扱ったりコンピューターを操ったりするのに特に必要ではなくても、 このような条件の揃った人は、図書館員の仕事を簡単にこなすことができるようになるのです。 反対にいくら書籍やコンピューターに精通した人であっても、先ほどの条件を持ち合わせていない人は、採用しないのだそうです。
 

21世紀の学校とは


○21世紀の学校とは、本来子どもが持っている良き大人になろうとする欲求を満たすところであるこのように、子どもの欲求と、 社会のニーズについて考えてくると、その両方が、完全に一致することがわかわかります。つまり、学校というのは、子どもの欲求を満たし、 本来持っている能力をのばして身につける場所と考えてよいのです。サドベリー校の理念はここにあり、これを実践しています。
 

●●サドベリー・バレー・スクールの日々

             ハンナ・グリーンバーグ氏講演

 ハンナさんは子どもの頃、初めて学校に登校した日に、そこが全くおもしろくない場所であると感じました。 人生に役立つことは全て、学校で学んだのではなく家庭で学んだのです。高校生の時、ハンナさんは作文の宿題を度々お父さんに変わって 書いてもらっていました。お父さんは文章がとても上手だったからです。ところがある時、父さんが書いた作文が悪い成績で返ってきました。 このようなことがおこるのは、公立学校のシステムに問題があるからです。ですから、ハンナさんは、子どもの教育の場をゼロからつくり はじめようと思いました。
 そうやって始めたサドベリー・バレー・スクールで、今、子どもたちはどのように過ごし、学校はどのように運営されているのか、 以下がそのお話です。

学校の運営について
 サドベリー・バレー・スクールでは、全てのことがスクール・ミーティングで決められます。スクール・ミーティングでは、 大人のスタッフも子どもも同じ1票を持っています。スタッフと子どもの人数の割合は、だいたい1:10なので、あきらかに決定は子どもに有利です。 スクール・ミーティングで具体的にどんなことが決められているかというと、例えば、予算をどんなふうに使うかということです。 また規則についてもここで決められます。サドベリー校では、基本的な約束ごとに「他人の領域をおかさない。他の人のじゃまをしない。」 ということがあります。これもミーティングで決められたことです。ですからサドベリー校には「いじめ」や「ぬすみ」はありません。 誰かがみじめな思いをする環境はないのです。
 次の出来事は一つの例です。サドベリー校では、創設されたころから学校としてはめずらしく、スモーキングルームがありました。 大人のスタッフで喫煙する人がいたためにミーティングで決められて作られたのです。その部屋ができると、当然子どもたちも入っていく 権利がありますので愛用する子どもたちが集まってきて、良いことと悪いことがでてきました。良いことは、スモーキングルームに集まる人たちが、 とても仲良くなれたことです。そして悪いことは、部屋が汚いということです。
 これは毎年スクール・ミーティングの議題にあがり、部屋をきれいにしないとスモーキングルームは閉鎖すると警告をうけていました。 そしてとうとう今年、閉鎖が決定しました。ただ、このときの投票では、不思議なことに、部屋を使用していない人たちが スモーキングルームの存続に1票を投じ、部屋を利用していた多くの人たちが閉鎖に1票を投じていたことです。 このように子どもたちは、環境、時代の変化に自分で対応していけるのです。
 また、スタッフは、年に1回来年度もサドベリー校で働けるかどうかという審査を、子どもたちの投票によって受けなければなりません。 これは、スタッフにとってはあまりうれしい制度ではないのですが、民主主義を貫くためには、避けられないことなのです。 サドベリー校では、子どもたちはたいへんな政治力を持っています。このようなことを通して子どもたちは、自分の力が学校にいかに影響するかを 知っていきます。そうした子どもは、自分が学校へきて何をすべきか何をしたいのかちゃんとわかっています。

  子どもの時間の過ごし方
 朝、登校してきた子どもたちは、それぞれその日に自分がしたいことを決めます。見学にきた訪問者は、サドベリー校の様子を見たとき、 一瞬ここでは何も行われていないように感じます。そして、歩いている子どもに「今、何をしているの。どこへ行こうとしているの。」 と質問します。子どもは何をしているのか答えますが、たいていこう付け加えます。「あなたとお話している時間はないの。私、今、忙しくて。」 サドベリー校はいってみれば駅のようなもので、外から見ていも1人1人が何の目的で動いているのかわかりません。 けれども本人にはちゃんと目的があるのです。ある人が何を考えているのか、何をしているのか外から判断するのは、とても難しいことです。 なぜなら、考えにふけっていたり、瞑想したりしていても、他人にはただ座っているようにしか見えないからです。
 こんなエピソードがあります。ある女の子がお母さんに「読み方を教えてちょうだい」と言いました。お母さんは「学校で教えてもらいなさい。」 と答えました。すると女の子はお母さんをじっと見て、こう言いました。「何考えてるの、お母さん。私、学校で時間ないのよ。」
 女の子にとってサドベリー校の毎日は、興味を引くことばかりなのです。そこでお母さんは家で、1日10分ずつ読み方を教える約束をしました。 女の子は、2ケ月で読み方をマスターしました。ちなみに、ハンナさんの娘さんは、10歳まで文字に興味を持ちませんでした。 ハンナさんはずいぶん心配しましたが、大人になった今、彼女の読み方や書き方が他の人より劣っているということはありません。 むしろ、うまくこなせるほうです。読み書きをおぼえるのが遅いからといって、何も心配することはないのです。 このように、子どもたちは自由であることと同時に、自分のすることの責任を身につけていきます。 また、自分が生きていくのに必要な能力と、他の人を理解する能力を同じように身につけていきます。 これらのことは社会が必要としていることでもあります。
 

●●●会場からの質問に答えて

                  グリーンバーグ夫妻

Q.卒業生の進路について教えて下さい。
A.70%の子どもたちが、卒業した後大学や専門学校などのなんらかの学校へ進学します。 また、卒業生の職業は、平均に比べて音楽、芸術、起業が多いようです。 間違いなく言えることは、卒業生が皆、自分に対する自信をとても持っているということです。

Q.サドベリー校の財政はどのような状態ですか?
A.最初の3年は、儲けるということを考えることはできませんでした。その頃のスタッフは、他でアルバイトをしながらサドベリー校に来ていました。 残念ながらサドベリー校は経営がうまくいくまでにずいぶん時間がかかってしまいました。 30年たった今は、他の私立の教員と同じだけの給料が支払えています。

Q.入学するにはどのような手続きがいるのでしょう。
A.入学は基本的には先着順です。入学は面接で決めます。特に、親がサドベリー校の良さを十分に理解してくれているかどうか、質問をします。 理解が十分でない場合、お子さんは他の学校へ入学されたほうがよいのではと伝えます。

Q.退学になることもあるのですか?
A.決まりごとを何度も破り、やり直すチャンスを何度も与えられたにもかかわらず、自己責任が取れなかった場合は退学してもらいます。 このようなケースが30年の間に7〜8回ありました。サドベリー校のやり方が合わず自主的に出ていく(自主退学)子どもは、 年に2〜3人いる程度で、普通の学校に戻る子はほとんどいません。

Q.どうすれば卒業できるのですか?
A.卒業したいと思う人は、「今後の人生について」自己責任をテーマにエッセイ(小論文)を書き、みんなに読んでもらいます。 そしてその後、約1時間のみんなの質問にきちんと答えれば卒業できます。

Q.卒業証書や単位というものはないのですか?
A.進学の為に卒業証書を発行することはあります。単位については、そのような考え方そのものがサドベリー校にはありません。 アメリカでは私立学校の教育はその学校にまかされていますので、単位は必要ありません。 自由な枠組である私立学校が変化することで公立学校に揺さぶりをかけていくことができると思います。

Q.日本の教育システムに浸かっている子が、サドベリー校に行った場合困ることはないですか?
A.アメリカの公教育で15歳くらいまで育った子どもでも同じことですが、途中からサドベリーに転入してきた場合はたいへんです。 スタッフは、その子に自由になりたいという意思がある場合、ただゆっくり待つのですが、1、2年は見ていて痛々しいです。 途中から入ってきた子どもはとにかくものすごく退屈します。それまで支持されて動いていたので、何をしてよいかわからないのです。 その時、スタッフはとりあえずやることを与えるといったようなことはしません。退屈感の最低のところまで行きつけば、 本人にどうすればよいか見えてきます。それまで、手助けすることは誰にもできないのです。

Q.スタッフの役割は何ですか?
A.学校では、いろんな年齢の人が一緒になっている(エイジミキシング)ことが大切です。 子どもたちは、年長者が知っていることを100%知りたがっています。スタッフは次のことをします。
 1.スタッフは、ありのままでいることを実践します。
 2.スタッフは、学校の総務的なことをします。学校運営をよく見えるようにします。
 3.スタッフは、子どもだけではできないこと、大人の手助けが必要なことをします。 例えば、旅行へいく計画を立てるのを手伝うなど。4スタッフは、専門性を持ち、子どもの質問に答えます。 簡単に言えば、家で親が子どもにすることをするのがスタッフです。

Q.スタッフの子どもによる審査は、グリーンバーグ夫妻も受けるのですか?それとも、経営者ということで除外されるのですか?
A.もちろん同じように審査を受けます。子どもたちに必要ないと皆されれば、すみやかに引き下がるべきです。 若くいるための秘訣がひとつだけあります。それは、若い人たちと一緒にいるということです。

Q.男女の比率を教えてください。
A.だいたい、男:女=6:4です。理由はわかりません。

Q.人種の比率を教えてください。
A.特にそういう目で子どもを見ていないのでわかりません。この質問は、教育関係者からよく受けるのですが、 そういうことを気にすること自体がどこかおかしいと思います。 このことばかりに気をとられていると、子どもの個々の個性を見失う恐れがあります。個人は、それだけで多様なのです。 多様性が普通なのです。

Q.障害を持つ子についてどのようにお考えですか?
A.サドベリー校では建物が古い関係で、車椅子の子どもはとれません。また、知的障害のある子どもも受け入れるのは困難です。 ハンディキャップのエキスパートではないということです。しかし、将来的にはどのような子どもも受け入れられるようになればよいなあと思っています。

Q.日本の教育の現状を見て率直に意見を述べてください。
A.意見を述べれるほど日本にまだおりませんので。それにアメリカの公教育も同じような状況ですので。 アメリカでは公教育が行き詰まっているという認識は広まっていますが……
 

<おわり>

グリーンバーグ氏講演会に参加して考えたこと

 

 当日は、とても沢山の人が来ていてびっくりしました。 ダニエルさんは、とても穏やかなのにエネルギッシュな感じの方で、笑顔がすてきでした。 ハンナさんは、頭のきれそうなさわやかな女性でした。
 講演の内容は、基本的には本に書いてあったり、TVで放映されていたことでしたが、実際にグリーンバーグさんからお話をきくと、とてもリアルでした。 質問は、休憩時間に紙に書いたのですが、みなさん熱心にたくさん書いていたようで、全ての質問には答えていただけませんでした。
 それでも具体的な質問に答えていただいたことで、よりサドベリーの様子がよくわかりました。
 講演の後、京都のフリースクールで3年間スタッフをしていた友人のKさんと、話をしました。 Kさんは小学校の先生を2年間して、そのあとフリースクールで働いていたのですが、スタッフをやめる時、公立の小学校もフリースクールも 結局問題はいっしょだと思ったそうです。Kさんが一番考えることは、全体ミーティングについてだそうです。 スクールミーティングは、サドベリー・スクールでも最も大切にされています。みんながいっしょに何かを決めていくミーティングを、 フリースクールにいた時Kさんも他のスタッフも大切にしようと思っていたそうですが、サドベリーのように子どもたちが積極的に議論するという 雰囲気にはなかなかならなかったそうです。また、講演会に来ていた神戸のフリースクールスタッフのOさんも、 特にミーティングについて本当にそんなふうにできるのか疑問に思うとKさんに話していたそうです。
 サドベリーだけではなく、例えばサマー・ヒルでも、全体ミーティングはとても重要視されているように本で読みました。 ところが、今、日本のフリースクールでは、このミーティングが積極的にできていない現状があるようです。 スタッフは、いろいろな海外のフリースクールの実践から、頭の中ではきっとミーティングで積極的な議論ができ、 それによって子どもたちは自主的に積極的に自分のしたいことをしていくだろうと思い描くのですが、実際の子どもたちは、めんどうくさかったり、 かったるかったりするのです。私は、公立学校ではないところで、毎日「自分の可能性」を探している子どもたちの居場所として、 日本のフリースクールはそれぞれ個性的にがんばっていると思います。そのフリースクールで、ミーティングがうまくいかないということが悩み(?) となっているとすれば、それは今の子どもたち全体の問題でもあるのではないかと思います。
 講演会で、私が一番知りたいと思ったことは、第1回目のミーティングはどんなふうだったかということでした。 回数を重ねた後なら、「ミーティングというものは真剣に物事を決めていく大切な機関で、積極的に参加するのがあたり前」という雰囲気が できあがっているので、そこに、新しいメンバーが一人加わったとしてもその雰囲気をぶちこわし、 かったるい雰囲気にしてしまうことはできないでしょう。
 けれども、まだみんながはじめてで、ミーティングの意味もやり方もわかっていない時、もし私がスタッフとしてそこにいたとしたら、 子どもも大人と同じ1票を持ち、しかも子どものほうが人数が多く、明らかに子どもの意見が通るそんなミーティングを開けるでしょうか。 そのことをKさんにいうと、それは子どものひとりひとりを100%信頼できるかどうかだけだろうねと、いう答えが返ってきました。 逆に言えば、私がそのミーティングを開く自信がないならば、子どもを信頼しているふりをしながら、100%信頼していないということです。 もしかしたら、子どもたちは、いつも信頼されてないのかもしれない。私たち大人はいつも信頼していないのかもしれない。
 そして、私たちも子どもだった時、大人から100%信頼してもらったことがないのかもしれない。だから子どもを信頼できないのかもしれない。 とすれば、今、子どもの問題と思っていることは、今の大人の問題なのかもしれません。 そのことが、本当に日本の教育問題の、ポイントのひとつかどうかはわかりません。けれども、私にとっては発見でした。 学校運営のような大きなことを、子どもたちと共に同じ1票で決定していくということは、残念ながら私には、できる自信がありません。 そこまで子どもを信頼していく自信がないのです。しかし、もっと小さなこと、例えば、何かの企画をする、文庫を運営するなどそんなことであれば、 100%信頼できるような気がします。
 小さなことからステップを踏めば、大きなことも子どもたちと共に決めていくことができるようになるかもしれません。 そして、そんな場所を子どもたちがもてることが大切で、そこで子どもたちが生き生きとしてくるなら、フリースクールか公立学校かということが 教育の選択ではないと私は思います。(1999.5月)